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だいたいちょろい

二次元三次元ひとっとび

担当をふたりにすることの内情の話

去年、萩谷さんを担当にします、増やします、という宣言をしました。

choronao.hatenablog.com

それ以来、萩谷さんを担当にしたものの、実際担当が二人いるってどういうことなんだろう、って実は自分でも長いこと疑問な状態でちゃんとかたまっていなくて、ずっとふんわり考えて続けていたんですけど、最近現時点においての結論は出たなあとおもうので、わたしの担当がふたりということの内情をさらっと書いてみようと思います。ただの覚書です。

現時点ではこう思ってるけどきっと未来は未来で、また変わるのだろうと。というよりも、変えてくれと祈るような気持ちでもあります。

 

わたしの担当は亀梨和也萩谷慧悟です。
担当が二人もいると、「実際どっちのほうがすきなの?」とかきかれるのかもしれませんが(わたしの周りはDDが多いのもあって明確にきかれたことないけど)、わたしの場合、どっちもすき、だけど、それぞれに求めているものは明確に分かれているんだなって最近わかってきました。
わたしが担当にしたい、担当として見ていたいとおもう要素はいくつもあって(結局のところわかりやすく言い直すと「すきなところ」って話になるんだろうけど)、顔がすき、とか、腰のラインがすき、とか、ダンスするときの身体の使い方がすき、とか、ドラム叩くときの色気がすき、とか、プロ意識がすき、とか、真面目なところがすき、とか、あざといのむかつくかわいい、とか、ぽんこつかわいい、とか、なんでも背負いがちだから見ていなきゃ、とか、チームに対しての貢献のしかたとか、外見も内面も本人の持つ能力も全部ひっくるめると要素はたくさんあります。
現状担当がふたりいて、この要素のうち、二人にかぶっているものもあって、かぶっていないものもあります。
で、この要素というのは、時間経過とともになくなったり、はたまた生まれたりするものもあります。ひとというものは変わっていくので、当たり前といえば当たり前のこと。それこそぽんぽん髪型変えるタイプのひともいるし、そうじゃなくても外見は常々加齢も踏まえて変わっていくし、年を経て考え方が大人になっていったりもするし、それは良くなったこともあれば、自分の中でプラスに働かなくなったもの(決して「悪く」なったわけではない)も、正直どちらもあります。
年齢を経て、という部分なので、たとえば良くなる分にはもう歓迎するだけなんだけど、プラスに働かなくなるというものの中にはどうしようもないこともあって、そうして、もともとみてきたかめなしかずやの中にできたもの、なくなったもの、そのうち、なくなったものの一部を、わたしは萩谷さんに委譲することにした、というのが、あのときわたしが担当を増やそうと決めた真相なのかもしれない、と。

 

以前背負うことはなくなった亀梨和也から、担降りするかもしれません、という話をしました。

choronao.hatenablog.com

もちろんこの要素もあるにはあるんだけど、それ以外にも気になっていたことがあって、もう具体的に言ってしまうと、亀梨和也が全力で踊る現場というものはもうなくなったのだろう、と思ってしまったこと。そして、それを見せてくれる子はきっとジュニアにいるんだろうと、ジュニア現場に入るようになって気付いてしまったこと。
これが、亀梨和也以外の担当を持とうとおもったきっかけのひとつだったのかもしれません。

亀梨和也は特にジュニア時代、デビューしてからしばらくは、ずっとずっと、全力で踊っていました。全力で、というと語弊があるのかなあ、ガシガシって言ったら伝わるだろうか。適度に抜いたダンスをする子より、ガシガシ踊る子がすきなんですよね、昔から。萩谷さんもだし河合郁人とか、2.5関係で小越勇輝さんも同じ理由でダンスが好きです。
亀梨和也はコンサートのときに全力で踊らなくなり(これは年を経てそういうダンスに変わっていったということもあるし、1曲に使うエネルギーを減らして体力温存をはかるという意味もあるだろうし、必ずしも「悪くなった」とおもっているわけではない)、亀梨和也の全力のダンスが見られる現場というのは、次第にドリボという舞台に限定されていくことになりました。それがそもそも多くの亀梨担のドリボにかける熱意にもつながっていたような気はするのですが。

わたしの場合、すきになったとき、亀梨和也は全力で踊る人で、そこがとてもすきで、ずっと見ていたくて、ダンスを見たい、というのは、わたしの中の亀梨和也という担当を構成する要素の中で、結構な割合を持っていたものでした。
ところがここ数年ドリボが玉森座長に変わって、亀梨和也が明確にガシガシ踊る現場は皆無になってしまいました。
そして、亀梨和也のガシガシのダンスが見れなくなったというのは、本当に、自分でもびっくりするくらい、大きなことだったみたいで。
わたしが当初すきになった部分が、年を経ていくとともになくなってしまうことがかなしくてさみしくて、そうなってしまったとき、もう見れなくなったそれを代わりに、というと言葉は悪いかもしれないけど、違った形でもいいから、とにかく視界で追いかけることに夢中になれるようなダンスを見せてくれる人を無意識に探していて、それがわたしにとって萩谷さんで、だから萩谷さんに「ダンス」という担当であるための要素を委譲したんだなあ、ってことに気付いた。

もちろん萩谷さんのすきなところはダンス以外にもあるわけだけど、現時点でわたしが萩谷さんでみたいものはわりとダンスをはじめとしたパフォーマンスに集約されがちな状況で、正直に言えば萩谷さんのダンスが見られることがいちばん大事で。
言ってしまうと、「グループの一員としての振る舞い」、という要素は、いまだ亀梨和也に預けているから、だからわたしは「Love-tune萩谷慧悟」にうまく愛着を抱けなくて、それはLove-tuneというグループに愛着形成ができないことに直結してる、ということになんとなく気付きつつある。
Love-tuneというグループが出来たことそのものはうれしいのに、萩谷さんがグループに所属するようになったことはほんとうにうれしいのに、Love-tuneにいる子は全員だいすきなのに、Love-tuneというグループの構成がすきなのに、全部嘘じゃないのに、なんでうまく愛せないんだろう、ってわりと長々悩んでたんですけど、あーーまだこの部分は亀梨和也に預けてるんだなあ、わたし、っていまさらなことに気付いて、でも少しすっきりしました。
萩安もね、すきなのはほんとう。でも、「シンメとしてのふたり」は、きっと、一生わたしはあのふたりに預けたままなんじゃないかという気もしていて。これ以上、どこかでちゃんと、消化できるのかなあ、消化する日が来るのかなあ。萩安がいつか上回る日が来てほしいけど、そうじゃなくても仕方ないともおもっている。だって青春を超えるのは難しい。それは単純に、もう自分自身が事実としての範囲を見失うほどには、きれいに「美化」されているから。
ただ、それそのものはきっと悪じゃないし、別にいますぐどうこうできるものでもなければ、そうすべきっていうものでもないし、無理に感情を動かせるわけでもないし、だから、わたしはしばらくはこのスタンスでいくだろうなあと、すとんと落ちてきた。
いつか、萩谷さんが、ほかの部分を、たとえば「グループの一員としての振る舞い」とか、「真面目なところ」とか、亀梨和也から委譲させてくれたり分担したりするものが増えるなら、それはそれでしぬほどうれしいんだ。だから、自然にそうなる日がいつか来るのであれば、それを歓迎するし、わたしはのんびり見守りながら、待っている。
萩谷さんに関しては、自分にはいちばん関係ないと思っていたオンリー担みたいな事態になってて自分がいちばんびっくりしてるし笑ってるけど、でも自分がみたいと思っているもの、大切にしたいと思っているものに対して正直でいないと続かないし、その範囲で担当ふたりともを大事に見守りたいなあと思っています。

以上、わたしが担当をふたりにした、現時点での内情でした。